株式会社 銚子塚建設

称号の由来


西暦1702年・播州赤穂義士の討入りに際し、義士たちは江戸入りする前(多摩川越えをする前)に平間村(現・川崎市幸区下平間あたり)に隠れ家を建てました。
その隠れ家の普請を請負ったのが渡辺喜右衛門でした。
それ以前より、喜右衛門は義士の一人である富森助衛門(赤穂藩においては五百石取りの武士でした)とは友人関係だったということです。
(富森助衛門が江戸詰めの際にでも知り合ったのでしょう)
 喜右衛門は隠れ家の普請の記念として、大石蔵ノ助より金製の「銚子」と脇差一振りを拝領し、家宝として大切に保管していましたが、義士による討ち入が成就されると、喜右衛門は義士たちの記念の為に、また多くの人々が義士の御参りが出来るようにと、自宅の庭に「塚」を築き、その「塚」の中に記念品である金製の「銚子」と脇差を埋め込み、頂上に伏見稲荷大社の分霊を祀り、以来祭祀を続けて参りました。
 いつしか、この「塚」には金の「銚子」が埋められている「塚」ということで、『銚子塚』と呼ばれるようになり、大工・渡辺喜右衛門の屋号も『銚子塚』と呼ばれるようになりました。
 以来『銚子塚組』という名称において主に建築工事(特に社寺建築)を営んで参りました。
(現在は時代の趨勢いにより一般建築の設計・施工を主に、土木工事・舗装工事等々を扱っておりますが、社寺建築の伝統もなお続いております。)また、渡辺家におきましても、(討ち入以前より「喜右衛門」の名前を襲名していたのですが)この歴史的な栄誉を記念して代々『渡辺喜右衛門』の名跡を残すために襲名をしてきました。
 先代「渡辺喜右衛門棟太」(わたなべきえもんむねふと・故人)は16代目の『喜右衛門』でした。